第34話:夜釣り(2)
「彼は名前をポーンと言って、ずっとここに住んでいるんだ。」と、ウイラットに改めて紹介された例の若者が、はにかみながらも両手を合わせて挨拶している。ウイラットの話では、以前彼の家族はこの潅漑用の池のそばで農業を営んでいたが、10年ほど前に池の拡張があり、その農地は水に沈んだ。ところが代替農地ももらえず、彼の家族はわずかな立退き料で追い払われてしまったのだという。その立退き料は、家族が生活できるほどの農地を買うには遠く及ばず今だに困っているのだが、この池での漁業の既得権があり、それで釣人の手伝いなどでアルバイトをしている、とのことであった。今日は船が壊れてしまい休んでいるが、いつもはここで毎日置網漁をしているそうで、すなわちこの池の主みたいな人であった。
話が終わり、私がちょっと小用を足そうと草むらに入ろうとすると、ポーンが「サソリに気をつけろ!」と言う。「サソリというと、あのサソリなのか?」と聞くと、「そうだ。刺されるとひどいことになるから気をつけろ。」とか言っている。エーッ!そいつは冗談抜きで本当に危ないではないか。後日、そのサソリをここで実際に見たことがあるが、それはもう危険そのものという姿に見え、黒光りするサソリに興味はあったが、とても近づいて見る気にはなれなかった。
ウイラットは、数分おきにハンドライトで例の練り餌の目印を照らして動いていないことを確認しながら、私の釣った小魚を木の小枝に刺し、焚き火にかざしていた。私が用意して来たカーオニヨウ(もち米)とガイヤーン(タイ風の焼き鳥)の夜食を広げると、ウイラットが「ふたりではこんなにたくさん食べ切れない。」と、その場にいた釣人をみんな呼んで、楽しく食べることになった。小さな焚き火の微かな赤い灯りを囲んで、仲間同士の気楽な冗談や会話が交わされ、笑い声が絶えない。夜も更け仲間同士の話も尽き、皆自分の釣竿に戻ってから2時間ほどたった11時頃、ウイラットが「しばらくしたら餌を付け替えなくては。」と言いながら、例の目印をハンドライトで照らして確認すると、一番向こうの竿の目印がかなり下まで落ちて、わずかに揺れていた。ウイラットは飛び起きるように立ち上がって釣り竿に走り寄り、慎重にゆっくりと釣竿を持ち上げた。リールはフリー状態になってるので、道糸を押さえて大きなモーションでカラ合わせを加えると、いきなり「ピュルン」と糸鳴りがした。リールをロックして、本格的な魚との引っ張り合いが始まった。これは本当に大物らしく、かなりの時間がたってもぜんぜん魚が寄って来ない。ポーンが、大きな玉網を水に浸けて待っている。20分近くかかっただろうか、やっと釣りあげた獲物は巨大な鱒であった。頭が大きい荒巻鮭のよう姿で、何と80cm・8kgもあった。握り拳が楽に入るくらいに口がでかくて、胸から腹にかけて鱒の仲間独特の美しい模様があった。「きれいな魚だな~!!」と感心して言うと、ポーンが「そうだろ?こいつはプラーレンという魚で、姿は美しいし食ってもうまいぞ。ここでの最高の獲物はこいつで、もっと大きい10kg以上のものもいるんだ。」と言う。何という恵まれた大自然であることか。「ここには、プラーダムやノーンチャンも10kgくらいのがいるんだ。でも、食べるのならこいつが一番うまいし、市場で売っても一番高く売れる。こいつが日に何本か釣れれば、結構な日銭になるんだぜ。」と言う。まあ、確かにこの池は溜め池というには大きすぎるし、あの山の向こうにもつながっているというからかなりの広さがあることには違いないが、何がどうして鱒がこんなに大きくなるのだろうか……。
その後、ポーンが例のチューブ浮輪を使って釣竿3本の餌を交換をして、さらに4時間後の午前3時過ぎにも交換した。しかし、その後大物がかかることはなく夜が明けてしまった。ある程度ものが見えるくらいにまで明るくなった頃を見計らって、ノンビリと小1時間かけて用意した小物釣り用の延べ竿を使って、また小物釣りを始める。はじめは当たりがなかったが、明るくなるとともに食いが立って来て、日が昇る頃には入れ食いとなった。5~10㎝程度の雑魚であるが、これだけ釣れればおもしろい。それを見ていたウイラットが、リール竿での小物釣りを始めた。小魚を釣り上げるたびに子供のように奇声を上げている。まあ、今日は手応えのある奴を一匹釣り上げたので、ご機嫌なのであろう。
ウイラットは、チェンマイ警察では所長の次に偉いクラスだというが、こんな姿を見ているとまったく信じられない。悪いことをしている奴等の中には、ウイラットを鬼より恐れている者も多いのだろうが、友達とご機嫌で過ごしている時の笑顔からはまったく想像がつかない。しかし、実はこのウイラットはとんでもない人で、今日のところはまあご機嫌だからいいようなものの、もし釣果が気に入らないと突然拳銃をぶっ放したりするのだ。
赤塚不二夫の漫画のお巡りさんでもあるまいし、魚が釣れなかったからといってやたらに鉄砲をぶっ放すのは勘弁してほしいものである。また、彼は拳銃とともに無線機を常に携帯しており、無線機は電源が入れっぱなしになっているので四六時中聞き取りにくい断片的な連絡のようなものが入り、ザーザーと非常に耳障りである。あれも、何とかならないものなのだろうか……。
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