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チェンマイから30km、そのチェンマイよりさらに古い12世紀に建設された都市遺跡群「ウィアン・ターカーン」

チェンマイ郊外ある都市の遺跡群、ウィアン・ターカーン あなたの知らないチェンマイ
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どんなところ?

チェンマイのはるか南30kmほどのところにある、ハリプンチャイ王国(ラムプーン)の黄金時代に栄えた都市の遺跡群。

ウィアン・クムカーム遺跡群よりも全体としての規模は小さいが、歴史はこちらのほうがはるかに古い。

遺跡はある程度観光地としての機能を有してはいるが、それらを見て回っていても外国人はもちろんタイ人の旅行者に会うこともまったくなく、自分は逆に村人から「こんなところに外人が来た」という感じでもの珍しそうに見つめられてしまったくらい人々には知られていない。

日本語のガイドブックでここを紹介しているのはおそらく皆無なので、そういった意味ではチェンマイ観光の超穴場的スポットのひとつと言うことができるかもしれない。

特に歴史好きの人にはぜひ訪れてほしい場所だ。

ロケーションとアクセス

チェンマイから南におよそ30kmのサンパトーン郡にある。

遺跡周辺の公共交通機関はほぼ皆無なので、訪れるのであればチェンマイからレンタカーかレンタルバイクを運転して来るのが一番便利だが、ソンテウやドライバー付きの車をチャーターして来てもいいだろう。

丸1日あれば、車で30分ほど離れたところにあるラムプーンと合わせて観光することも可能だ。

遺跡に一番近い町は国道108号線沿いにあるトゥンシヤウ(ทุ่งเสี้ยว)で、遺跡の中心は街の一番大きな信号つきの交差点から東に2kmほど入ったところにある。

交差点には遺跡の大きな案内看板も出ている。

チェンマイ郊外ある都市の遺跡群、ウィアン・ターカーンの案内看板

どうしても公共交通機関で、ということなら、チェンマイ門から出るドーイローもしくはチョムトーンまで行く乗り合いソンテウ(ピックアップトラック)かバスに乗ればトゥンシヤウを通るが、そこで遺跡巡りをする交通手段を見つけるのはかなり大変。

なので、トゥンシヤウの手前7kmほどのところにあるずっと大きな町のサンパートーン(สันป่าตอง)で降り国道沿いにたむろしている乗り合いソンテウかバイクタクシーをチャーターすることになるがやはり簡単に見つかるとは限らない。

なので、やはり前段の自前の足でチェンマイから来たほうがいいと思う。

ウィアン・ターカーンの歴史的背景

神話にあるウィアン・ターカーンの由来

ポンサウァダーン、ヨーノック年代記など歴史書の記録によれば、ウィアン・ターカーンの歴史に関連するチェンマイの原初的な宗教と土着の神話は、仏教の故事として残されている。それらの歴史書の記録では、仏陀がウィアン・ターカーンを訪れたとされているが、考古学的に見ると、ウィアン・ターカーンの街は12世紀のアティタヤラージャ王の治世に建設されたと考えられる。この時代、ハリプンチャイ王国の宗教、芸術および文化は隆盛を極めていた。

ウィアン・ターカーンの都市は、ラムプーンの町を守ると同時に食料を供給する役目を担い、その重要性はラーンナー王朝のマンラーイ王の時代(在位1261年~1311年)まで続いた。チェンマイの街が建設される以前、一帯はウィアン・プンナターガーンとして土着の神話には記録されている。

ラーンナー王国時代のウィアン・ターカーン

マンラーイ王は、ウィアン・ブンナターガーンを重要な街として位置づけ、そこにボーの木(インド菩提樹)を植えた。

チェンマイ土着の神話は、4人のプラー・マーハー・テラーが4本のボーの木をランカー(現在のスリランカ)から持ち帰ったと記している。後にマンラーイ王がそれらの木を受け取り、1本はファーンの街のトゥン・ヤンで、もう1本をチェンマイのルオ・ナーンで、さらにもう1本をウィアン・プンナターガーンで育てた。そして、残りの1本は、彼の母親がウィアン・クムカームにあるワット・カーントームに植えて育てたとされている。

ウィアン・ターカーンは、後にチェンマイのティローカラート王(在位1441~1487年)の支配下に入った。この時代、ティローカラージャ王はギオの街を攻撃し、捕虜をウィアン・プンナーターガーンに住まわせた。北タイ地方の方言で、「プンナー」は1,000スクエアの広さを持つ水田地区という意味である。

後の1558年、ホンサワディーのブレーンノーン王がチェンマイを支配した際、ウィアン・ターカーンもビルマ人に占領された。その後、チェンマイとウィアン・ターカーンは、1796年にカーウィーラ王がビルマを追い出し、この地域にタイユアン族を移住させるまで、1775年から1798年の間は荒廃した。タイヨーン族は、ウィアン・ターカーン一帯に今日まで住み続けている。

しかしながら、ウィアン・ターカーンに住む人々は、ターカーンという言葉は「ターカー」という単語から来ている、と主張する。村の言い伝えによれば、ある時白いカラスが村に飛んで来たが、村に不幸をもたらすとしてすべての村人によって追い出された。その出来事から、人々は自分たちの村をターカー(北タイ地方の言葉でターカーはカラスのことを指す)と呼ぶようになったらしい。さらにその後、1907年には、ワット・ターガーンの僧院長が、村の名前をバーン・ターカーからバーン・ターカーンに変更した。

ウィアン・ターカーンについて書かれた文献は、ハリプンチャイ王朝からラーンナー王朝の時代まで、人々がこのエリアに住み続けたと主張している。北タイ地方には考古学的な遺跡はそれほど多く残っていないが、このエリアでは仏教の碑文や土製の仏像、ブッダとボディーサッタの銅像などのハリプンチャイ文化の下で作られた遺物がいくつも発掘されており、さらに多くのハリプンチャイとラーンナーの文化の下で作られた遺物がウィアン・ターカーンの街の内外に残されていると考えられる。

ウィアン・ターカーンとハリプンチャイ王国との関係

ハリプンチャイ王国は、チェンマイおよびラムプーン県のピン川上流の平原、ラムパーン県のワン川沿いの平原とカオカー郡にある数多くの街から成り立っていた。そして、ラムプーン(ハリプンチャイ)が王国の中心であった。チャーマテーウィー(ハリプンチャイ王国の最初の支配者と言われるモン人の女王【注1】)の神話には、ワーステープという隠者が767年から768年にハリプンチャイを建設したと書かれている。

ハリプンチャイを建設した後、彼は統治者としてラウォー(現在のロッブリー)国の王女であったチャーマテーウィーを迎えた。ハリプンチャイの街が平定した後、支配者はその領土を拡大させ、その影響はワン川平原の広い範囲に及んだ。ケーラーン(現在のラムパーン)の街は、この時代に確立された。ハリプンチャイ時代のピン川平原に見られる古代都市は、ノーントーン地区(サンパトーンの東)のウィアン・マーノー、チェンマイ県のハーンドーン、ソーンケーオ村のウィアン・トア、チェンマイ県のチョムトーン、クラーン地区のウィアン・ターカーン、チェンマイ県のサンパトーンである。

北タイに伝わる神話によれば、仏陀がハリプンチャイとウィアン・ターカーンを訪れ、ハリプンチャイは自分の遺品が安置された偉大な街になるだろうと予言した、とされている。それに加え、神話にはアーティトアヤラージャ王がワット・プラタート・ハリプンチャイの中に仏陀の遺品を納めたストゥーパ(仏塔)を建設したが、その工事中に白いカラスが彼の頭上を飛び回り、彼が兵士にそのカラスを捕まえるよう命令したが、ウィアン・ターカーンヘ飛び去っていった、と記されている。ハリプンチャイの街とウィアン・ターカーンは、お互いに関係しあっていたということができる。アーティット・アヤラージャ王は、1043年に即位した。したがって、ウィアン・ターカーンはハリプンチャイの街が建設されたのと同時代かそれ以前にできたのかもしれない。

ウィアン・ターカーンとチェンマイとの関係

ウィアン・ターカーンとハリプンチャイの繁栄と没落は、同時代にあたる。

マンラーイ王がハリプンチャイを征服した後、ウィアン・ターカーンはチェンマイを防衛する街となった。ティローカラート王(在位1441~1487年)の治世、彼はギオの街を攻撃し、ウィアン・プンナタカーンに住まわせるために、多くのギヨウ(タイヤイ=シャン族)を捕虜として連れて来た。ウィアン・ターカーンはランナー王国の街として、そしてチェンマイのプンナー(1,000スクエアの広さを持つ水田地区という意味)としての重要性を長い間保ち続けた。

1558年、ホンサウァディー(ビルマの都市)のブレンノーン王がチェンマイに軍隊を送り、その時以来ウィアン・ターカーンはビルマの支配下に置かれた。1728年、ラーンサーン王国(14世紀、ラオスのルアンプラバーンを首都として成立した王朝)のオーンノック王が大きな力を持ち、ビルマと戦った。その結果、ラーンナー王国の多くの街は1775年から1798年の間荒廃した。その後、1796年にカーウィラ王がバンコクからの軍隊と協力してチェンマイを襲撃し、ラムプーンとウィアン・ターカーンを復活させた。これらの街には、タイヨーン族が居住した。

≪出典≫インフォメーションセンターに掲出されている説明
【注1】……同朋舎「タイ事典」P218
【注2】……日本タイクラブ「タイ日大辞典

遺跡群を効率的に見学するには

遺跡は3方をお濠に囲まれた約1km四方のエリアに点在しており(その外側にもいくつか残っている)、すべてを歩いて回ることは不可能。

しかもウィアン・クムカーム遺跡群のようにそれらを巡る馬車などの移動手段もないので、上記の通りあらかじめチェンマイ市内からからレンタカーかレンタルバイクに乗って来る、あるいはソンテウやドライバーつきの車をチャーターして来て見学するのがよい。

中心部を貫くメインストリート沿いにある遺跡を除けば、いかにも北タイの田舎というカンジの村の中の細い道を進んで向かうことになるが、自動車だと進むことが困難なくらい狭い道があったり駐車スペースが見つけにくい遺跡もある。

遺跡は、下記説明の通り大きく6つのグループに分けられており、多くの遺構にはタイ語と英語の説明看板が設置されているほか、チェディ(仏塔)などが密集した中心部には資料館とインフォメーションセンターがあって出土した遺物が展示されていたり、遺跡の来歴などについて詳細な説明がなされているので、遺跡巡りはまずはここから始めるのがよい。

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各遺跡の紹介

ウィアン・ターカーンの遺跡は、ロケーションによって6つの遺跡群とそれらからやや離れたところにある独立した寺院遺跡、およびお濠と城壁によって構成されている。

一応、観光地としての体裁は整えてられてはいるものの、遺跡の保存状態はウィアン・クムカームほどよいとは言えない。

野ざらしで遺構の上などにも乗って歩くことができる場所も多いが、そのようなことをする場合は遺跡を壊したりすることのないように、細心の注意を払いたいものである。

ウィアン・ターカーン遺跡マップ

第1遺跡群

チェンマイ郊外ある都市の遺跡群、ウィアン・ターカーンの第1遺跡群

このグループは、ウィアン・ターカーンの中心に位置しており、22,400平方メールの広大な敷地に遺跡が点在しているほか、資料館もここに建てられている。

ウィアン・クムカームにはこのような広くて開けたスペースに遺跡が数多く固まったところがなく、スコータイほどではないものの、壮観な印象を受ける。

寺院全体は東側にメインの門が作られた壁に囲われており、チェディ(仏塔)、ウィハーン(本堂)、ウボソット(布薩堂)、そしてその門と壁の基礎部分が残っている。

チェディ(仏塔)はウィハーン(本堂)の後方に位置しているが、基壇の8角形のスタイルはラムプーンにあるワット・チャマテウィー(=ハリプンチャイ様式)の影響を、丸型の鐘はラーンナー様式の影響を受けていることから、14世紀から17世紀の両王国の時代に建立されたと考えられる。

チェンマイ郊外ある都市の遺跡群、ウィアン・ターカーンの第1遺跡群の仏塔

このグループのエリアの遺跡からは、金・銀・銅製の仏像と土製のブッダに関する碑文が発見されている。

しかし、この地域での最も重要な遺物は、ユアン王朝時代のブルーアンドホワイト(青磁)の壺だ。

この遺跡は、タイ国芸術局によって登録され、境界が決定された。

この登録は、1979年9月18日に発行された政府官報の第96巻、160章の中で布告されており、1988年にタイ国芸術局第4部によって発掘・修復が行われた。

第2遺跡群

遺跡中心部から見て北西側に位置する、ワット・プラ・ウボソットとワット・パーパオを中心としたグループ。

このエリアの寺院は、14世紀から17世紀のラーンナー王国の時代に建設されたと考えられ、タイ国芸術局によって1988年に発掘、修復が行われた。

ワット・ウボソット

チェンマイ郊外ある都市の遺跡群、ウィアン・ターカーンのワットウボソット

お濠の内側にある遺跡。

この遺跡で現存しているモニュメントは、ラーンナー様式の四角形の基壇を持つチェディ(仏塔)と、その前に建てられたウィハーン(本堂)、それに屋根のない楼門である。

この寺院のウィハーン(本堂)は東に面しており、遺構は境界に作られた壁によって囲まれている。

楼門は遺跡の東側に残されている。

チェディ(仏塔)はウィハーン(本堂)の裏側に位置し、基壇から鐘形の頂上部までほぼすべてが残っている。

寺院がこのような名前で呼ばれるのは、寺院の中に打ち捨てられたウボソット(布薩堂)があったからであるが、後にそのウボソットは住民によって取り壊され、新しいものに建て替えられた(おそらく、チェディ(仏塔)ーの脇に建っている新しいウボソット(布薩堂)がそれであろう)。

16世紀から17世紀のラーンナー王朝時代に建てられたと考えられており、タイ国芸術局によって1988年に発掘、修復が行われた。

ワット・パーパオ

チェンマイ郊外ある都市の遺跡群、ウィアン・ターカーンのワットパーパオ

お濠と城壁に接するようにしてその外側に建てられた寺院。

写真の通り荒地の中に四角形の大きな基壇とチェディ(仏塔)の下部だけが残されている。

この遺構を見る限りでは、それほど大きな寺院ではなかったと思われる。

第3遺跡群

チェンマイ郊外ある都市の遺跡群、ウィアン・ターカーンの第3遺跡群

第1遺跡群の南に隣接した、ワット・トーンポーを中心としたグループである。

「ウィアン・ターカーンの背景」で言及している、ランカー(スリランカ)から来たボー(インド菩提樹)の木は、マンラーイ王によってこの寺院の敷地内に植えられたと考えられている。

このグループで残っている遺構は、チェディ(仏塔)、ウィハーン(本堂)、ウボソット(布薩堂)と遺骨を納めるための四角い建物である。

チェディ(仏塔)の南側にあるウィハーン(本堂)は、東にあるメインの門の方を向いており、すべての遺構は、この門から伸びる境界線に作られた壁によって囲まれている。

これらの遺構は、14世紀から17世紀の間のラーンナー王朝の時代に建設されたと考えられ、タイ国芸術局によって1988年に発掘、修復が行われている。

第4遺跡群

遺跡の中心部からやや東側に位置している。

ワット・フアカオーンが、このグループの中心と位置づけられているが、それ以外に遺跡はなく、グループと呼ぶには少々無理があるような気がする。

ワット・フアカオーンには、南を向いたウィハーン(本堂)の後方にチェディ(仏塔)が残っており、境界に作られた壁によって囲まれている。

この寺院は16世紀から17世紀のラーンナー王朝の時代に造られたと考えれており、1988年にタイ国芸術局によって発掘、修復が行われた。

第5遺跡群

ワット・プラチャオカムを中心とする、中心部から北東方面に位置する遺跡群。

ここにたどり着くには、村落内の少し複雑に入り組んだ道を進んでいかなければならない。

遺跡群そのものは、村はずれの住居がとぎれた先にポツンと取り残されたようにたたずんでいる。

ワット・プラチャオカム

チェンマイ郊外ある都市の遺跡群、ウィアン・ターカーンのワットプラチャオカム

荒地に大きなチェディ(仏塔)の基壇部分のみが残っている遺跡。

説明書きを見ると、チェディ(仏塔)の奥にウィハーン(本堂)も残っているようなのだが、自分が複数回訪れても確認することができなかった。

寺院が「プラチャオカム」と名づけられたのは、このエリアから焼けた銅の仏像が見つかったからで、カムは北タイの方言で「焼けた」という意味である。

寺院のモニュメントは東を向いており、チェディ(仏塔)とウィハーン(本堂)は同じ基壇の上に建てられているという。

寺院は14世紀から16世紀のラーンナー王朝時代に建立されたと考えれ、1989年にタイ国芸術局によって発掘、修復が行われた。

第6遺跡群

お濠の外側、遺跡中心部からほぼ真西に位置しており、トゥンシヤウの街からウィアン・ターカーンに向かって進んで来ると、一番最初に左手に見えてくるのがこの遺跡群だ。

ワット・トンゴークがこのグループの中心を形成している。

ワット・トンゴーク

チェンマイ郊外ある都市の遺跡群、ウィアン・ターカーンのワットトンゴーク

チェディ(仏塔)の上部は典型的なラーンナー様式である釣鐘型をしているが、およそ50年前に基壇がビルマ様式に作り変えられて現在のような大きさになった。

しかしながら、このチェディ(仏塔)そのものの建設はまだ完了していない、とされている。

ワット・トンゴークのこのチェディ(仏塔)は、正面が東を向いたウィハーン(本堂)の裏側に位置している。

チェディ(仏塔)の北には、まだ発掘されていないウィハーン(本堂)の小さな丘と小規模な建物の遺跡があるらしいのだが、自分は存在を確認することができていない。

寺院は、ラーンナー王朝時代の15世紀から17世紀の間に建立されたと考えられており、1989年にタイ国芸術局によって発掘、修復が行われた。

そのほかの遺跡&遺構

ワット・クーマイデーン

チェンマイ郊外ある都市の遺跡群、ウィアン・ターカーンのワットクーマイデーン

ワット・トンゴークの前から南東に伸びる通りをどこまでも進んだ、ほかの遺跡からはかなり離れたところ(説明書きにはウィアン・ターカーンの中心部から300m南と記されているが、実際にはもっと離れている)にポツンと残された寺院の跡。

全体の半分ほどの高さまで残ったチェディ(仏塔)とウィハーン(本堂)の跡が残り、チェディ(仏塔)の前には崩れかけた3体の仏像が無造作に置かれている。

この寺院は、地元の人々からクーマイデーンと呼ばれているが、それはここにタイでは「マイデーン」として知られる赤い(デーン=แดง)木(マイ=ไม้)があったからである。

しかしながら、寺院の歴史に関する情報はまったく記録が残っていない。

遺跡には、チェディ(仏塔)、ウィハーン(本堂)、境界を形成している壁が同じ基壇の上に乗った状態で残されている。

チェディ(仏塔)とウィハーン(本堂)は2度建設されている(前者は、他の遺跡のチェディ(仏塔)とは色が異なっており、もしかしたらかなり新しい時代に作られたものかもしれない)。

崩壊しているチェディ(仏塔)の内部には、花托模様の3つの輪がつけられた高い四角形を2重に重ね、継ぎはぎされたもうひとつの小さなチェディ(仏塔)があるが、これは遺物を収めるためのものだと推測される。

このもうひとつのチェディ(仏塔)は16世紀から17世紀の間に建てられたと考えられている。

チェディ(仏塔)の基壇から伸びたウィハーン(本堂)の基壇の上には、現在見ることのできる新しい基壇が造られている。

ウィハーン(本堂)の南側にある四角形の基壇は、かつてパビリオンか僧侶の住居として使われた建物の跡である。

この寺院そのものは、14世紀から17世紀の間に建立されたと考えられる。

ワット・ノーイ

チェンマイ郊外ある都市の遺跡群、ウィアン・ターカーンのワットノーイ

第1遺跡群と第3遺跡群の南、ウィアン・ターカーンを囲む城壁と運河の近くに位置する遺跡。

ほかの寺院に比べると規模が小さいことから、タイ語で「小さい」という意味を表わすノーイという名前がこの寺院につけられた。

この寺院の歴史に関する情報は、上記ワット・クーマイデーンと同様まったく記録が残っていない。

東向きに建てられたメインのウィハーン(本堂)の裏手にチェディ(仏塔)の遺跡が残り、さらに北側にはもうひとつの小さなウィハーン(本堂)の跡がある。

この2つのウィハーン(本堂)は、ともに3回建設されている。

最初は大きなレンガで造られ、その後の2回は規模の拡張を目的とした建て替え工事である。

チェディ(仏塔)はずっと昔に崩壊し、宝物蔵の遺跡と合わせて四角形の基壇のみが残っている。

この寺院は14世紀はじめから17世紀の間に建てられたと考えられている。

ワット・パーパイルアック

チェンマイ郊外ある都市の遺跡群、ウィアン・ターカーンのワットパーパイルアック

街の南西、城壁とお濠に接するようにしてその外側にある寺院の遺跡群で、第1遺跡群と第3遺跡群に残された固まった寺院跡を除けば、ウィアン・ターカーンの中で最も大きな遺構である。

タイ語で「パー」は森を、「パイルアック」はシャム竹(日本の竹と異なり中が詰まっている)を意味しており、この寺院群の名前の由来は、このエリア一帯にたくさんの竹が生えていたことによる。

しかしながら、この寺院群の歴史に関する情報はまったく記録が残っていない。

寺院群は、東に向けて造られた壁に周辺を囲まれている。

この壁は幅56.35m、長さ81.80mの大きさを持つ。

壁自体は平均して厚さ70cm、高さ50~70cmである。

発見された遺物から、いくつかの寺院は12世紀から14世紀にかけて建立されたと考えられるが、入口近くにある遺跡群の大部分については14世紀から17世紀に作られたと推測される。

この寺院には、大きく9つの遺構が残されている。

チェンマイ郊外ある都市の遺跡群、ウィアン・ターカーンのワットパーパイルアックの遺構

*NO.1……遺跡群の南側に位置しており、東を向いて建てられたウィハーン(本堂)とその裏にチェディ(仏塔)が残っている。この2つは、もともとは別の基壇の上に建てられたが、後の拡張工事でひとつにつなげられた。そのため、現在は同じ基壇の上に乗っているように見える。ウィハーン(本堂)はラーンナー様式の開放的なホールになっており、チェディ(仏塔)は蓮をかたどった四角い基壇の上に建てられ、大昔に倒壊している。

*NO.2……遺跡群のほぼ中央に位置している。ここには、ラーンナー様式のウィハーン(本堂)の基壇がふたつと、何だったのかまだ判明していない小さな建物の基壇が残されている。ふたつのウィハーン(本堂)は大きなレンガと漆喰で造られ、そのうちのひとつは南向きになっている。大きなウィハーン(本堂)の裏手に位置しているもうひとつの小さな付随的な建物は、大きなレンガだけで建てられている。

*NO.3……遺跡群の東側に位置している。南を向いたレンガの壁でできたウィハーン(本堂)が残されている。ウィハーン(本堂)内部にはさらにレンガの壁が造られており、それが部屋をふたつに分けている。

*NO.4……NO.1の遺跡とNO.2の遺跡の間にある。東を向いている、はっきりと間仕切りをしない間取りをした小さな四角形の建物の跡が残っている。

*NO.5……遺跡群の周囲を囲む壁の北東角に残された遺跡。中央にふたつの木の梁が平行に残った円形をフィーチャーした楕円形の基礎を持つ遺構が見つかっている。ここからは、大量の灰と炭が見つかり、また繰り返しここで何かを燃やした跡が残っていることから、遺体の火葬かいけにえを燃やすために使われていたのではないかと推測されている。

*NO.6……遺跡群の周囲を取り囲む壁の南に残されている小さな四角形の遺構を持つ遺跡である。この遺構はウィハーン(本堂)として使われていたと考えられる。

*NO.7……遺跡群の周囲の壁の北側に位置している。この遺構はトイレとして造られたと考えられており、遺構に残された3つの壁は、現在も周囲の壁とつながっている。

*NO.8……遺跡群を囲む壁の東側に残された遺跡。発見されたさまざまな遺物は、ここが囲炉裏かキッチン、火葬場、あるいはハーブサウナとしてさえ使われていたことを物語っている。

*NO.9……NO.3の遺跡の北側に位置している。ここにはレンガと漆喰で造られた壁を持つ小さな四角形の建物が現存している。これは、パビリオンのひとつとして建造されたと考えられている。

お濠と城壁

チェンマイ郊外ある都市の遺跡群、ウィアン・ターカーンのお濠

お濠と城壁は、南北に約700m、東西に約500mの長方形をしており、現在のターカーンの村を取り囲むようにして残っている。

お濠は約7mの幅があるが、東側は埋め立てられてしまったのか、城壁とともに残っていない。

お濠を囲むように作られた道路から見ると水面はかなり低い位置にあり、雨季に水が入ったらかなりの深さになるであろう。

お濠の周囲には人家などがあまりなく、どこも静かな雰囲気が漂っているが、村人が小さな船に乗って魚を取っているのがたまに見えたりもする。

これらのお濠と城壁はハリプンチャイ王国の時代に原形が作られ、ラーンナー王朝の時代に拡張工事が行われたと考えられる。

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