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チェンマイおよびタイ北部の歴史 概説

チェンマイにある3人の王様記念像 チェンマイおよび北タイ史
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はじめに

タイの歴史は一般に、タイ人が歴史にはっきりと出現したと見られているスコータイ時代から始まる【注】とされている。

しかしながら、タイ北部ではすでにこの時代チェンマイを中心に置くラーンナー(ล้านนา=百万の水田)王国が形成されていたことからもわかる通り、それとは異なる独自の歴史文化が築かれていたと言えるだろう。

そしてまた、通常1296年にマンラーイ王が当地に建都したことから始まると記されることが多いチェンマイの歴史も、実は石器時代から連なる土着の人々と、現在の中国から断続的に移動してきたタイ系諸民族、さらには交易の要衝としての地理的特性からベトナムやビルマ(ミャンマー)、インドなどからこの地に移住した人たちをも含む実にさまざまな人々によって織りなされてきたということが史料を調べるとわかってくる。

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ラーンナー王国出現以前

チェンマイは、古来より雲南とチャオプラヤー平原とを結ぶ長い交易ルートの途中にあたる、ピン川に沿った標高400mほどの高原に位置している。

鉄器などの考古学的な遺物から、この地域に最初に人間が居住したのは、少なくとも2000年前であると考えられる。

これらの人々は「ラワ」と呼ばれており、後に紀元6世紀~10世紀に栄えたドヴァーラヴァティー王国のモン族(注:山岳民族のモン族とは異なる)にとって代わられた。

モン族はチャオプラヤー川上流域を支配し、交易ルート上の広大で豊かな渓谷に伝説ではロッブリーの王女チャーマテーウィーを迎え入れてハリプンチャイ(ラムプーン)王国を8世紀に建設した。

これが、この地域での最初の文化的に高いレベルの都市国家で、ラムプーンには今もチェンマイとは異なる独自様式からなる寺院が残されている。

この豊かなエリアは、強力なタイ族のリーダーであるチェンセーン王国のマンラーイ王にとっても魅力的なものであり、1296年に彼はハリプンチャイを征服し「新しい(ใหม่=マイ)都(เชียง=チェン)」という名の都市、すなわちチェンマイを建設した。

マンラーイ王は、都市を設立する場所として、典型的なタイ族の都市と同様に、水と森林の豊かな山のふもとを選んだ。

マンラーイ王

マンラーイ王は、北タイ先住民であるラワ族でヒラム(ヘランナ)・グン・ヤーンの領主であったラオ・メンを父に、現在の中国雲南省景洪地方にあったタイルー族の領主の娘を母として1239年に生まれた。

父方の始祖はラワ・チャ・カラトと称し、その6代目の領主ラオ・キアンが西暦937年にグン・ヤーンで領土を確保した。

そして、そこからさらに14代目がマンラーイ王の父となる。

なお、タイの書物では現在のチェンセーンをグン・ヤーンであるとするものが多いが、考古学的には決め手はなく、むしろ対岸のラオス領も含めて考えたほうがいいと思われる。

当時、雲南の景洪から南に向かうと最初に出現する広大な盆地であるチェンラーイにも中国南部から移住してきたタイ族の小国家(ムアン)が出現、ようやく統合されはじめていた。

パヤオやスコータイと並んで新興国家としての意気にあふれ、またカリスマ的な力を備えていたチェンセーンの青年王マンラーイは1262年にチェンラーイを建設、急速にその支配力を高め1272年にはファーンにも居住しチェンコーンへの派兵を指揮するなど周辺の小国を征服していった。

そして、1276年にはパヤオの強力なリーダー、ガム・ムアン王との同盟を結び、さらによい土地を求めてチェンマイを建設、彼の王国ラーンナータイの都を移した。

マンラーイ王は、それまで征服してきた都市よりさらに豊かで強力な都市国家であるハリプンチャイ(ラムプーン)を1281年手中に収めた。

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ラーンナー王国の黄金時代

マンラーイ王の死後、都は再びチェンラーイやチェンセーンに移されたこともあったが、1345年には結局チェンマイに戻り、さらに1355年に即位したクーナー王のもとで本格的な発展を迎えた。

クーナー王の治世は30年間に及ぶ安定したもので、ラーンナー王国の国力は充実し、文化的な遺産を多く残した。

ハリプンチャイ(ラムプーン)を根拠地にしているモン族や、南方の大国スコータイを中心に信仰されていた仏教を国教として受け入れたのもこの時代のことだ。

チェンマイは、ラーンナー王国の首都として15世紀までその黄金時代を謳歌した。

その間、この内陸の王国はタイ北部、北西ラオス、ビルマ(ミャンマー)のシャン州東部、さらに雲南南部のシップソーンパンナー(12千の田=シーサンパンナ=西双版納)までを支配下に置いた。

上座部仏教の影響を受けた豊かな文化が王国内に花開いた。

ラーンナー王国の衰退と荒廃

ラーンナー王国は、15世紀になると10年以上に及ぶ内乱とティローカラート王時代に起こったアユタヤ朝との数回の戦争のため国力は衰え、周辺諸国への影響力は後退した。

一方、16世紀前半のムアンケーオ王の治世には北タイの歴史を記した「チナカーラマーリー」が著されたり、仏典の整理や寺院の建設、修復が行われるなど文化的な収穫には目を引くものがあった。

ムアンケーオ王の死後、内部の王位を巡る争いと圧政によって国力が弱まり安定しないままだった。

それを見たビルマ(ミャンマー)・タウングー朝ペグー王国のバインナウン王はアユタヤ王国と手を組み、ラーンナー王国とラーンサーン王国(百万の象、という意味で現在のラオス~イサーン(東北タイ)地域を支配していた)を攻め、チェンマイは1558年に陥落した。

続いてラムパーン、ラムプーンなどの周辺都市もビルマ(ミャンマー)の支配下となった。

この後約200年間は、チェンマイをはじめとするタイ北部の街はビルマ(ミャンマー)の属国の立場に置かれさまざまな面でその影響を受けることになると同時に、アユタヤ王国との戦いのための前線基地となり富は食いものにされる長く苦しい時代が続いた。

アユタヤ王国のナレースアン王時代の一時期その影響下に入ったり、何度か反乱なども起こしたりしたものの鎮圧された。

しかし一方で、美術や工芸にビルマ(ミャンマー)の様式を受け入れ、土着の様式と混合して、しっとりとした雰囲気の北タイ美術を完成させた時代でもあった。

最終的にタイ族のシャム王朝と同盟を結びビルマ(ミャンマー)を排除することに成功したが、国力があまりに弱まったためチェンマイはすっかり打ち棄てられたような状態になってしまった。

チェンマイの復興から現代へ

1767年トンブリー王朝のタークシン王がタイ領からビルマ(ミャンマー)軍を駆逐した後、チャオプラヤー・チャックリーとチャオプラヤー・スラシーの兄弟の活躍で1776年にラーンナー王国も服従させた。

トンブリー王朝に取って代わったチャクリー王朝創始者のラーマ一世の信任を得て、チェンマイではラムパーン出身のカーウィラ王がタイヤイ(シャン)族、チェントゥンのタイケーン族、その東にあるムアンヨーンのタイヨーン族らとチェンマイの再建に取り組み、公式には1796年に都市を再建しラーンナー王国を復活させ、独立国としてバンコクの王朝に服属した。

今日、チェンマイおよびラムプーンに居住する多くの人々は、カーウィラ王のもとでこの地域に移住してきたこれらの民族の末裔たちである。

例えば、市内中心部のウアラーイ通りには銀細工店がずらりと並んでいるが、職人たちはこの時代にビルマ(ミャンマー)から渡ってきた人々がほとんどだ。

カーウィラ王は、1804年にビルマ(ミャンマー)軍の最後の拠点チエンセーンを攻略し、ビルマ軍の完全な排除に成功した。

これにより、ラーンナー王国は長年にわたるビルマ(ミャンマー)の支配から解放され、今度はバンコク(チャクリー王朝)の勢力下に置かれることとなった。

カーウィラ王はさらに現在のビルマ(ミャンマー)シャンの州都チェントゥンや雲南のシップソーンパンナー方面までその勢力を広げた。

シャム王国との同盟によって、チェンマイはその力を高めていった。

その後7代、約100年間にわたってチェンマイは政治的にも文化的にもタイ北部の中心として繁栄した。

19世紀に入ると北部のチークの森に興味を示した西欧諸国の人々が増えていったが、シャム王国のチュラロンコーン王(ラーマ5世)がチェンマイの支配権を手に入れ近代的な統治制度を確立した。

また19世紀の後半には中国からの移民が急速に増加した。

シャム国(タイという国名になったのは1949年)との経済的な統合は1921年に鉄道が開通したことによりさらに堅固なものとなり、タイの経済的統合が促進された。

何百年にもわたって続いた中部タイよりもずっと強かったビルマ(ミャンマー)との結びつきはこのバンコクからの鉄道開通によって断ち切られ、以降完全なバンコクの影響下に入った。

また、政治的な壁のせいもあって、雲南の一地方であるシップソーンパンナーのチンホン(景洪)、ビルマ(ミャンマー)のチェントゥンなどの都市との間の歴史的な交易ルートも長い間閉ざされてしまった。

逆にそのため、チェンマイは観光都市としての発展を迎える1970~80年代まで、静かな都市としての趣を保ちつづけることもできた。

1980年代以降、チェンマイは近代都市として消費文化を発展させていった。

バンコクの影響がそれをさらに促進させている。

現在、チェンマイ県の人口はおよそ170万人に達し、そのうち約25万人が市部に居住している。

年間およそ300万人もの観光客を迎える国際観光都市となっているが、チェンマイが建都されて700年が過ぎ、かつてラーンナー王国が勢力範囲に置いていた中国(雲南)、ビルマ(ミャンマー)、ラオスなどとの交易ルートの本格的な再開も期待されている。

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